そろそろ飽きてきた人、いるんでしょうね…。
って事で我々の担ぐ神輿の歴史に触れていく感じに本は導いていきます。
『内史畧』や『篤焉家訓』などは、「宝永六年(1707年)初て盛岡二十三丁より山師物、練物出る」と伝えているので、宝永六年から出師物(出し飾、山車)や練り物等が城下二三町より出るようになったという。しかし、『雑書』からは確認することが出来ないので、当時はまだ練り物だけだったようだ。正徳元年(1711年)の祭礼では神輿渡御と流鏑馬が行われ、神輿の後へ大神楽と鍛治町の獅子踊り、さらに紺屋町・六日町・材木町・久慈町などの子供踊りが続いていたのである。
聞きなれない地域名が出てきましたね。
六日町というのは今でいう栃内病院のあたりですね。
久慈町というのは材木町より北側のあたりを指すそうです。
それにしても神輿の後に子供踊りが続いていたというのは凄いですね。
どういう踊りなんでしょうか?やっぱりさんさなんでしょうかね?
正徳三年(1713年)の『雑書』によると、八月十五日、神輿渡御に随行して「町印、笠ほこ並びに町こどもおどり(子供踊り)」が行列を組んで新八幡宮へ入ったことがわかる。この時にみられた町印(丁印)と笠鉾が史料上の所見である。笠鉾は山車のことであるから、正式に山車が運行されるようになったのは、正徳三年からとみるべきだろう。
さすが盛岡市無形民俗文化財の盛岡の山車ですね。
それにしても神社のお祭りで御神輿というのはそういったものに指定されないんでしょうかね?
我々の神輿も同じように文化財になったらもっともっと盛岡八幡宮例大祭は盛り上がるんでしょうけど…。
なお、山車とは曳かれる屋台のことで、鉾とか山などの名もある。ダシとは本来、神の依代となる物をいった。山車には、祭礼行列の中心となる神の座が神輿に移行した後は、人形を飾り、あるいは大勢の子供などが乗って、祭り囃子をはじめ賑やかな芸能を演ずるようになったのである。
今も昔も変わらない景色だったのでしょう。
もっとも素材や形は違うのでしょうけど、変わらないのは熱い人達が一生懸命に作り、曳いていたんでしょうね。
ちなみに「神の依代」という言葉があります。
依代(よりしろ)とは…神の依りついた樹や枝を輿に乗せて神が巡幸することを意味したが,次第に装飾化して現在は神輿の屋根に名残りをとどめている
ウェブの辞書ではこのように書かれております。
故に山車の飾りつけは希望も込めて華やかなのかもしれません。
つづく。
- 2019/04/15(月) 08:00:00|
- カヌっちょ
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