ギラ會頭から昨日教えて頂きました事実。
本ブログで引用させて頂いている「『雑書』を読む」の著者である細井先生はなななーんと!
南會の20周年にて特別講演をされていたようです!



歴史の語り部としての講演会は南會にとって大いに刺激になったものと思います。
ありがたい事ですね。
さて、勧めて参りましょう。
『雑書』延宝七年八月二日条によると、江戸参勤中の四代藩主南部重信による八幡宮の造営指示が、江戸詰め家老の奥瀬伊左衛門と桜庭十郎右衛門から盛岡に届けられた。そこで「大工使い吉日の儀」について、盛岡の5か寺(永福寺、聖寿寺、東禅寺、法恩寺、教浄寺)の筆頭で藩主家の祈寿寺でもあった永福寺に尋ねたところ、八月五日が吉日ということで造営に着手することになった。
つまり参勤交代で南部の殿様が江戸にいるときに「作りましょう」と指示を出して家老の2名が盛岡に帰ってきたと。
日取りの良い日に着工したいので盛岡のお寺の偉い人に「いつ着工したらいいかな?」と聞いたら八月五日だったという事ですね。

我々も八月五日はさんさ踊りが終わって肴町の七夕に行くことがあります。
さんさが終わった次の日は盛岡八幡宮着工を決めた日だと覚えておきましょうね。
延宝八年になると、三月十五日に八幡宮本社を造営するための地鎮祭が永福寺によって執行され、四月二十日に「御本社柱立て」、同二十九日に「御本社御棟上げ」が行われた。こうして延宝八年中には、盛岡八幡宮本社・雷堂・新羅堂・神輿堂・稲荷堂などが建立され、志家の八幡宮は神社の形態を整える事になったのである。
1670年8月が正式な盛岡八幡宮完成の日という事なんでしょうかね?
神輿堂ってありますが、南會の認識の「神輿殿」で良いのでしょうかね?
その辺の事を掘り下げると前に進まなくなりそうな内容ですが、いずれにしてもスケールの大きなものです。

ちなみに今のように護国神社が並ぶようになるのはまた後の話です。
歴史があるって素晴らしい。
歴史を知らなくても生きてはいけるわけですが、知っているのと知らないのとでは生きている奥行きが違います。
つづく。
- 2019/04/11(木) 08:00:00|
- カヌっちょ
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