書籍「『雑書』の世界」をなぞりながらわかりやすくお伝えしましょう。
豊前国(大分県)宇佐の八幡宮(宇佐神社)に始まった八幡信仰は、その後、飛躍的に発展し、平安京の鎮守に石清水八幡宮が勧請された。特に清和源氏が八幡神を氏神と仰ぐようになると鎌倉幕府の鎮守として鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)が勧請され、更に広く武士の守り神として全国各地に広がった。身近なところでは、盛岡八幡宮、八戸市の櫛引八幡宮、仙台市の大崎八幡宮などが良く知られている。
南部の御殿様は源氏の家来であった訳です。
これは皆様もご承知の通りかと思います。
源頼朝が鎌倉幕府を作った後は源家の神様として八幡神を鶴岡八幡宮に連れてきたという事ですね。

ちなみに私の会社の社長は毎年、鶴岡八幡宮に参拝し、お札を貰ってきます。
その八幡信仰は全国の家来達が「おらほにも神様くだんせ」といったかはわかりませんが、広がりを見せた訳ですね。
昔は信仰というのがとっても大事でした。
「神頼み」をする事で軍の士気を上げたりするわけです。
当然、天下人の源頼朝公の恩恵にあずかりたいと思う大名がいても全く不思議ではありませんね。
盛岡八幡宮の祭礼は、藩政時代から今日まで連綿として続いており、現在は毎年9月14日~16日の3日間に渡って繰り広げられ、市民の間からは「お八幡さんのお祭り」として親しまれている。
もともと盛岡城内三の丸にあった鳩森八幡社には、一般庶民の参詣が許されていなかった。そこで盛岡藩では、八幡宮を民衆信仰の中心にしようとする政策を背景にして、志家村の丘陵地に新しく八幡宮を造営することにした。
鳩森八幡社とは盛岡八幡宮が今の場所に移る前の名称という事になります。
三の丸っていうのは城の中の区切りのような感じですかね。
さくらまつりもありますのでこういったマップを見ればまた楽しみもあるでしょう。

城の中は庶民が気軽に入れないので城の外に神社を作って広く庶民に崇められるように今の場所に鎮座する訳です。
この八幡宮の造営年代については、横川良助や市原篤焉らが藩政後期以降に成立した史書は、いずれも延宝七年(1679年)の建立と伝えているが、それは着工年であって、八幡宮の造営は延宝八年とみるのが正しい。
という事で盛岡八幡宮の建立は1680年という事になりますね。
2020年の東京オリンピックでは実に盛岡城から移設して340年の節目の年になるという事なんですね。
ちなみに今の肴町商店街はその数年後に出来たようです。
いやぁ、歴史の重みを感じますね。
盛岡城~盛岡八幡宮の間に家がある人達って言うのはもしかすると「家系図」があるくらいの名家なのかもしれません。
彫助さんもそうですね。先祖には「印鑑彫座衛門」なんて人が先祖だったり…。
つづく。
- 2019/04/10(水) 08:00:00|
- カヌっちょ
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