盛岡八幡宮に祀られている「品陀和気命(ほんだわけのみこと)」ですが、簡単に言うと第15代応神天皇でございます。
別称も数多くあり、「誉田別尊(ほむたわけのみこと)」とか「大鞆和気命(おおともわけのみこと)」等とも呼ばれます。
父は仲哀天皇であり、子は仁徳天皇です。

この応神天皇ですが、実は…確実に実在が確かめられる最初の天皇とも言われております。
そして当時は、渡来人(簡単に言うと中国からくる外人)が日本に来やすくするらために新羅の妨害を防ぎ、多くの渡来人を日本に受け入れました。
百済から優れた文化や技術を輸入した応神天皇の功績により、幅広いご利益が期待され、広く崇拝されるようになりました。
庶民にまで崇拝される神様になった背景には渡来人の良いところを吸収し、広く庶民の生活が改善された背景があるようです。
これが源氏の氏神となり、盛岡八幡宮に分霊されていると言う訳ですね。

昔の神社は藩主と良好な関係を築くことが長く繁栄を保つのに非常に重要でした。
こうした背景もあり、南部家初代藩主南部利直(藩主としては初代だが、当主としては27代目)は駒形神社、名君名高い三代目藩主重信は盛岡八幡宮、そして江戸末期に積極的な経済振興政策を推進した第十二代藩主利済は志和稲荷神社と縁が深いのです。

初代藩主 南部利直公
ちなみに駒形神社ですが、全国でも珍しい南部藩と伊達藩で平等管理だったそうです。
故に色んな事が起きて大変な時期もあった様子。

初代藩主 南部利直公を漫画チックに…
初代藩主利直は最後まで伊達政宗と戦い、因縁は後世まで続きました。
南部家の元々の本拠地は三戸でしたが、九戸政実の乱や伊達家との戦いにより、盛岡に本拠地を移したのです。
そして鉱山開発によって南部藩の財政の基礎を作りました。

初代藩主 南部利直公をカードゲームに…
盛岡に移った南部利直は鳩森八幡社を城内に祀っていたため、民衆は参拝が出来なくなりました。
その後、第三代藩主南部重信が新たに八幡宮建設を行い、庶民の参拝を可能にしたのです。
これが現在の盛岡八幡宮となったのです。
そして例大祭で行われる神輿渡御は延宝9年(1681年)から始まっております。
今は2017年ですから…実に336年の歴史がある渡御と言う事なんですね。

ここは推測ですが、当時は町内会の有志の会として担いでいたんではないかと推測されますね。
ちなみになんで毎日ブログの更新している時間が朝の8時なのかと言いますと…
「盛岡八(8)幡宮」だからなんですねー!
と言う事で本日の授業はここまで!
- 2017/07/10(月) 08:00:00|
- カヌっちょ
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