遅れましたが、つづきを。
将来を真剣に考え、ここまで盛り立てた南會の努力を水の泡にするわけにはいかなかった。
当時の方々はなんとか藤原正良宮司に頼み込み、栃内さんをはじめとした河南地区の有力者たちも応援してくれた結果、藤原正良宮司はひたむきな思いに心動かされ、南會のパワーを借りてみたいという考えも心の中に出てきたのです。

藤原正良宮司の目にも新しい取り組みをしなくてはいけないと言う思いが去来していたのです。
「市民や県民と遊離してはいまいか。若者の信仰離れは時代の風潮だけでは済まされず、八幡宮の在り方も変化していかなければならないのではないか。」と考えておりました。
八幡門前町に構えているだけではなく、積極的に街に出る必要もあるのではないか。
と言う考えも芽生え始めていたのです。
担ぎ手や氏子が集まらなかった場合、お祭りや催事の簡素化が始まってしまう。
これが市民や県民の遊離に拍車をかけてしまう。
そこで南會の若者達と一緒に積極的に行動しようと言う考えになっていくのです。
タイミング…と呼ぶには少し偶然。
もはや運命と言っていいのではないでしょうか。
何より周りの皆さんが如何に真剣に河南地区や八幡宮の事を考えていたのか…。
その一言に尽きる訳です。
それではまた。
- 2017/04/04(火) 08:00:00|
- カヌっちょ
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カヌっちょのmamは昭和58年くらいまでマクドナルドで仕事してました。
私もあけぼの幼稚園にいっていたので帰りは必ず肴町に来てバスセンターから帰っておりました。
肴町に来るのが楽しみで仕方なかったですね。
- 2017/04/05(水) 09:27:40 |
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- カヌっちょ
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